※日刊プロスポーツ新聞社様、いつも本当にスイマセン…
※以前 X にポストしたものも入っています
※途中いらん話も入っているかと思いますが、かいつまんで読んでいただければ
※もう少しうまくまとめたいですが、私の限界です…
※100%正しいことは書いていないと思ってください。きっと大体合っていますが、責任は取れません…
神山雄一郎選手が引退を表明しました。競輪を知り始めた頃にデビューして、現場に行くようになったのはちょうどタイトルを取った年(1993)でした。何度となく現場でレースを見て…勝つのはもちろん、負けて怒号飛ぶのも(ヤジも飛ばしました)…活躍期の姿を思い浮かべつつ、たくさん載せていきます。
手元にあった新聞で一番古いのをまず。
1989/10/09京王閣記念前節準決勝。S級昇格3期目です。バンバン優勝してますね。しかし海外遠征から調子を取り戻せないのか敗退でした。
この頃は私まだ中学生でしたが、父から「カミヤマってのが強いんだ」「カミヤマ、また記念勝ったぞ」「カミヤマは学業も1位だったんだ」何度言われたか(笑)。
当時の記念は3日間開催を2回実施(前後節制)、S級とA級のトーナメント戦がありました。
当時の級班制度
(S級(S1~S3)、A級(A1~A4)、B級(B1、B2)の3層制でした(KPK…競輪プログラム改革構想。2002年3月まで)。S級は上位10%程度で、S1は130人しかいませんでした。A級が55%くらいいて、残りがB級。なので当時のS級はとても強く、A1でもかなりの実力者)
1989/10/27京王閣記念後節最終日
A級は往年の名選手が出てくる楽しみもあったと思います。
1990/01/08立川記念前節決勝。新人王を取ってから優勝ラッシュ。この期(1989年12月)からS1で、2019年後期まで30年キープしたと。
前日の入場者数・売り上げも載せます。
賞金制度
この頃はその競輪場の売上によって賞金が違っていました(1号~5号基準、2014年度まで)。川崎、立川は別格で売れていた印象。客も入りました…。
1990/03/25平塚ダービー準決勝。特別(フルメン)初出場で優出(4着)、この勢いで…とはならず、特別制覇まで案外時間がかかりました。
1991/06/24弥彦ふるさとダービー準決勝。大レースの決勝には乗るが、勝てない頃。
前日の入場者数・売り上げ。
ふるさとダービー
上で何号基準の話をしましたが、地方の競輪場は売り上げが厳しく(場によっては、9車ではなく8車立てでレースをしていた)、ふるさとダービーという大会が89年にできました。場外が多くなり売上も凄いですが、入場者数も(今年の親王牌の最終日よりいずれも多く)。ちなみにこの年が競輪、年間の売上が一番ありました。
1991/09/21高松オールスター2次予選(5着)
秋は不調…この年から吉岡稔真が特別に出場するようになり、優勝は92年前橋ダービーで先を越されます。
ただここからなんですよね。93年宇都宮オールスターを優勝、そこからは毎年大レースを優勝するように。
初めて神山選手のレースを現場で見た話
初めて神山選手を現場で見たのは1993年の京王閣記念でした。宇都宮オールスターを制したのが前月、脚見せではファンの皆さん暖かかったのがレースでは早々に終了の9着、大変なヤジが飛んだ記憶。
(当時は京王閣、どこからでも見ることができ…金網のところをぐるっと回れました。ゆえにヤジは敢闘門に戻るまでずっと…ただそこで終わり、一話完結)
当時の車券、買い方について
現場に行き始めた頃(1993年)の車券の買い方についても。競馬はマークシートでの購入が始まってましたが、競輪は口頭での購入が基本。入場者も多く売場は長蛇の列ができる訳で、買うだけでも結構な思いをした時代でした。
(まあ、締め切った放送あっても何だかんだ買えたような…大らかな時代)
メモが用意してあり、これに書いて渡してもOK。
川崎とか京王閣は往時が大変な入場者だったので、売場の建物が当時はもの凄くたくさんありました…。高度経済成長時にバリバリだったお客さんがまだまだ元気だった頃で、話しかけられるのが怖かったです。
(下ばかり向いてた。それゆえかあまり競輪場の景色を思い出せません…)。
車番連勝式の発売を始める場が1995年9月から少しずつ出て、マークシートも…という感じだったと思います。
1995/10/08京王閣記念初日
3Rまでが車複、4R以降が車単でした。
1996/03/25千葉日本選手権競輪初日
車番を発売している場外では車番連勝式を買えるが、本場に見に行くと枠しか買えなかった大レースもありました…。
ついでに単勝複勝車券も載せておきます。単勝複勝は窓口が2つ程度しかなく、場所を探すのが大変でした。
こうして残していても、どこで買ったのか思い出せない場が少なくないです。
車券の話、終わります。
神山吉岡の時代。
1994/06/07びわこ高松宮杯決勝。
1995/07/31青森全日本選抜競輪決勝。
KEIRINグランプリ95は、名勝負と思います。吉岡稔真優勝、神山雄一郎2着。
この頃は、記念で両者があたることがなく、大レースで対決を見るのが楽しみでした。ただ対決がないまま終わることもあり…それゆえ面白かった時代ですね。
脚は吉岡、組み立て含めた総合力で神山は互角に戦える、そんな感じだったでしょうか。個人的には、吉岡が力を出し切ったら太刀打ちできない印象でしたが、9車で走る競輪、そうはならないとしたもので。
(ただ、これは当時の記憶のみでの評価で、今レースを見てみると神山選手、やっぱり強いです)
映像を見る機会
若い競輪ファンの方は、当たり前のように何度もレースをダイジェストで確認できる環境で始めていらっしゃると思いますが、私が打ち始めた当時(1993年~)は、
・インターネットがない(携帯電話も90年代半ばを過ぎないと普及しない)
・録画をしてもビデオテープなので、何度も見返すレースはほとんどない
競輪中継自体も大レース決勝以外は
・CSスポーツチャンネルの競輪中継、スピードチャンネル(1994年から)
・UHF局
1995年あたりの環境で競輪の映像を見るのはまだまだ大変でした。地方局が競輪に力を入れていないと(群馬テレビが強力でした)、CSを受信する環境がないとテレビで見るのは大変で…現場・場外に足を運ぶしかなかったです。
インターネットはまだ普及してないし動画配信はとても無理な段階。ゆえに1回限りの記憶というのも多いのです。
私は93年以降ケーブルテレビでスポーツ系CSチャンネル、関東全地方局があったので、見ている方です。ただ、ビデオテープの時代で録画していても繰り返し見るのが面倒、今と比べたら…。なので、今当時の映像を見ると全然違った印象を持つことも少なくないです。これは競輪を見るスキルが上がったのもありますが、環境要因も大きいです。
1997/01/27花月園共同通信社杯決勝。アトランタラインですね…。
十文字貴信が出てきてタイトル獲得数、さらに積み上げました。
情報源
この頃、競輪のオフィシャルサイト「競輪らんど」も始まったかと思います。
それまでは新聞の競輪欄が重要で(朝刊はもちろん、その日のデーレースの結果が載っている夕刊デイリー)、他に週刊プロスポーツ(日刊プロスポーツ新聞社)、月間競輪が貴重(週間レースは、当時私知りませんでした…)でしたが、少しずつネットで情報を得られるように。
(もっとも、速度が全然なのでいろいろ落とすとなると大変でした…)
月間競輪
週刊プロスポーツ 何か月かに1回の表紙カラー版
こういうインタビューが良い情報になりました…今読んでも「オッ」ってなりますね
戻ります。少し別の出走表を…同期連携。
1997/10/12京王閣記念後節初日、廣川貞治との連携。
1999/11/13花月園記念後節初日、紫原政文との連携。
両方ともどういうレースだったか、全く思い出せませんが、2人ともまだ現役で頑張っていらっしゃいます。紫原は今期61期S級2名のもう1人です。
撮影について少々。今でこそ撮影OKな競輪場が多くなりましたが、禁止以前に当時はそんな発想すら持つべくもなく…そもそも携帯電話に撮影機能が付いたのが2000年ぐらいですし、お客さんも多く迷惑になりますから。
(怖いお客さんと目が合うのも嫌だったので、競輪場の景色も覚えていないのが多いのが正直なところ…)
2012/08/10 松戸競輪場正門
ガールズケイリンが再開した時も、まだなところがほとんどだったかと。
最後に、1999/03/30静岡日本選手権競輪決勝。
時期的なものか、3月はイマイチの調子が多くこの年も決して…の印象でしたが十文字が駆けての絶好展開、わずかに押し切ってのグランドスラムでした。
グランドスラムを達成するまでも結構な道のりだったと当時は感じていましたが、ここから20年近くトップクラスで走り、S級は35年維持…神山雄一郎選手、本当にお疲れ様でした。そして、これからのご活躍も楽しみにしております。
ありがとうございました。